平成25年7月20日(土)歴史講演会「北前船と丹後」
講師 京都府立丹後郷土資料館 吉野 健一氏
●「北前船」とは何か?
・特定の船の名前や大きさ、航路などを示したものではない 東前船
・もともとは、瀬戸内海方面で日本海側を経由してくる船を読んだ呼称ともされる
→瀬戸内海地域で主流となった弁財船が日本海側でも普及し、これも北前船と呼ばれる
・江戸時代から明治時代にかけて、上方と日本海沿岸、北海道などの間で貿易をおこなった廻船
で、日本海側に船籍を持つ船・・・日本海側で同時代に「北前船」と呼ばれることは少なかった。
→同時代資料などによると呼び方は、「べざい船」「弁財船」「バンセン」など
・主として、買い積み船を呼ぶことが多い ←→ 賃積み船
→買い積み船とは、航行する船の船主が商品を直接買い入れ、売りさばく形式の船のこと
・江戸時代後期から明治初頭にかけて時期が全盛期とされる
「北前船」の航行時期は、旧暦の3月から10月頃・・・冬は休止される
→太平洋側に比較して、運用期間が限定される
●北前船がもたらしたもの
・上方方面への上りでは、主として北海道などの海産物やその加工品
・日本海沿岸や北海道地域への下りでは、生活雑貨や砂糖・塩などが運ばれる
→大阪で荷積みされた品物が多い
・日本海沿岸は、北前船交易が活発であったこともあり、文化的な類似点が多い
●丹後の廻船業
・丹後地域の廻船業は、江戸時代初頭から中期頃は、丹後と近隣とを結ぶ小規模な廻船
・江戸時代後期以降になると、丹後地域に限らず広く日本海や大坂などとも交易を行う
・一部では、年貢米や国産品など公的な物資を廻船で運ぶこともあった
・現在の島根県浜田市の客船帳によると、丹後の廻船が多数入港
→・特に多いのが加佐郡由良・神崎・竹野郡間人・与謝郡岩滝・熊野郡湊・宮津・加悦
・浜田に立ち寄った丹後船は、江戸時代中期~幕末で計500隻以上
・船主名として、久美浜湊の本座屋・岩滝の山鹿屋・由良の米屋などが記録
・飛島(山形県沖)の客船帳では、間人・浅茂川・田辺などの地名が見える
●三上家の廻船業
・宮津城下の三上家は、酒造業・糸問屋に加えて、廻船業も営む
・江戸時代中期以降を中心とする膨大な三上家文書(京都府指定文化財)
・大坂の引き札(広告)や政治的情報なども、早い段階で正確なものもたらされている
→御用商人として藩との関係もあるが、上方方面との独自のつながりが存在
・日本海沿岸の相場記録や但馬・石見・大坂など物資をやりとりした記録が存在
●江戸時代の丹後・宮津と北前船
・戦国時代末期には、加佐郡や丹後半島で水軍が活躍
・戦国時代末期に細川氏が丹後に入国
・丹後地域の経済的な中心地は宮津城下町
・北前船や大型の廻船が入ると大いに賑わったともされるが、詳細は不明
・宮津城下町では遊郭などが並ぶ東新浜が存在 →文化14年(1817)に埋め立て
・繁盛の様子「碇泊船井旅人遊客モ相応有之、隋而市中多少之金利ヲ得タル趣相聞き候」
・万延元年(1860)時点で家数72軒を誇る花街 →幕末頃にかけて隆盛
●由良の廻船
・由良や神崎では、多くの船頭が活躍し、丹後廻船や北前船を支える
→由良地域で船を持つ者も現れる :百姓船持、町人船持、生糸・縮緬問屋船持
由良では港または沖合で荷積み、荷下しを行う?
→由良地域を拠点として、由良川筋と日本海側をつなぐ船のルートがあった。
●船と信仰
各地に残る奉納和船・船絵馬 →絵馬の図柄はのちに定型化
・江戸時代に廻船などに用いる船の模型を神社等に奉納する →航海の安全等を祈願
・丹後地域では、智恩寺・溝谷神社(京丹後市)など多数が残存
・金毘羅信仰
・航海安全の神としての金毘羅信仰
→讃岐の金毘羅宮から護摩札を受け取っ手いる例が丹後にもある
・由良の金毘羅神社でも、多数の奉納絵馬が存在
→「奉納まげ」という、航海安全を祈って曲げを本殿に奉納する習慣
・和貴宮神社の玉垣
→近隣のみならず、北陸や関西方面からも寄進があったことが分かる
・廻船業などによる遠方地域との交流の活発さを物語る
●おわりに
・丹後における北前船や廻船の歴史はまだ発掘段階のものが多い
・今後資料の整理や発掘が進むことで、より具体的な様相が明らかに
(吉野先生の配布資料より)
平成24年11月14日(水)
日置物語
吉野先生と行く、日置の三古寺を訪ねて
日置は、智恩寺に伝わる「九世戸縁起」に一夜にして天橋立の松を植えた神が、夜明け松明を捨てたところを日置といいます。
また、日置には多くの遺跡や古墳が点在し早くから人が住みついていたことが伺われます。幕末の人口は、日置上村で117軒539人
日置浜村で117軒519人がありました。また、丹後半島へ向かう道や宮津湾へ入る陸上、海上交通の要衝であり、中世の山城跡があります。
ところが、古文書が少なく未だ解明されていない、これからの調査が待たれます。今回、40名の方が参加されました。
寺伝によると、平安時代初め勅願寺として現在より北の位置にあり、花山法皇の法号より「宝光寿院」を賜ったと伝えられます。平安時代の
代表的な歌人和泉式部も訪れ、歌を残したと伝えられます。国司藤原保昌が巡察で訪れたとき、和泉式部の歌を文殊に埋めたところを鶏塚と
いいます。鎌倉時代、西大寺真言律宗の興隆に力を注ぎ、執権北条氏の祈願寺極楽寺を開山した忍性上人が当院を現在地に移し、再興されました。
南都大安寺より、順慶上人を招きました。
地頭職、日ケ谷城主松田頼盛の娘千手姫は、後宇多天皇の側妃に上がりました。天皇が大覚寺に入ると願蓮と称し2世順慶上人に帰依して、法皇の
安穏を祈願していました。大いに悦ばれた法皇は、祈願仏愛染明王像を送り、金剛心院を寺号としました。
泉住職のお話を伺い(写真中)日本の地図をさかさまにすると、大陸に近いのは丹後だとわかります。早くから大陸文化の影響を受け、
日置には、宮津にある重要文化財の仏像のうち5分の4があります。宝物館(写真右)も見せて頂きました。
愛染明王像(写真左)は、昨年秋42年ぶりのご開帳がありました。秘仏で目にすることはできませんが、本堂にある写真パネルを写しました。
法皇が拝んでおられたた仏様で、穏健な形相と立派な装飾品が施されています。厨子は、桜山の蜜言寺にあったそうです。
宝生如来像(写真中)は、宝物館にあり写真撮影できませんので、写真パネルを写しました。カヤの一木造りで平安初期の作風で、宝光寿院の
本尊としてお祀りされていたと思われます。
勅使門、後宇多法皇、後醍醐天皇の勅使・院使を迎えた門。普段は開かずの門です。現在の門は宝暦3年(1753年)に再建され、扉は昨年
泰安700年を記念して寄贈を受けたものです。
日置を守った制札です。(写真右)禁令や法令を書いた札です。一番古いもので、六波羅探題のもの。足利高氏のもの。この札のおかげで
金剛心院が戦火を免れました。永正4(1507)成相寺焼失。天文11(1542)国分寺兵火により全焼。
嘉歴4(1329)の銘があり、宮津市で最も古い石仏です。(写真中)中興の祖忍性上人が、四天王寺に大鳥居を建てた石の余りで、
2世順慶上人が、先師を顕彰すべく地蔵菩薩を掘りました。落慶法要に舟で運んでいるとき、丹後沖で難破してしまい、翌年再び運び
無事安置されました。(写真中)
盃状穴 勅使門の石段には、ところどころ長年の雨だれで空いたような穴がありますが、この穴に鯨の油を入れて灯明にしたそうです。
(写真左)
世屋へ向かう道をしばらく行くと、「禅海寺」の看板が見えます。細い道を上がると石段の上に臨済宗百丈山禅海寺があります。
先代のご住職が亡くなった後、智恩寺の管理になっている妙心寺派の禅寺です。本堂の襖をあけると、海が眺められ栗田半島が見えます。
座禅を組むには、ぴったりのところです。平安時代に寿福院として七堂伽藍を有する天台宗寺院として創建され、南北朝時代に薬遠寺と
して再興され、室町時代に明江聖悟が入山し中国百丈山に似てることから山号寺号が変わりました。
鎌倉幕府に仕えた御家人日置氏の居城が北方300mの山城があります。
本堂の襖絵は、和田屏山作の風雨龍虎図が囲みます。左側の地上の虎が龍を見上げる図(写真左)と風雨の中を天へ上る龍の図(写真中)
反対側には、鶴が描かれています。
宝物館には、平安後期の国風文化を象徴する阿弥陀如来像、観音菩薩、勢至菩薩像。平安後期に作られた千手観音像。見事な仏様が大切に
保管されています。
最後に訪れたのは、国道沿いにある日蓮宗顕立山妙圓寺です。城跡のような石垣は穴太積みで、高さ5メートルの津波が来ても大丈夫の
高さです。京都指定庭園は、穴太積み職人の故郷の琵琶湖を模した庭が見どころです。
本年の勉強会は、これで終了です。
平成25年2月頃 ハクレイ酒造酒蔵で「宮津の歴史秘話」をお送りします。
平成24年7月11日(水)
文殊ものがたり 歴史の道を歩く
気温30度を超す、天橋立駅にお集まりいただきました。
まず、国道を宮津よりにしばらく歩き、宮津線の線路を超えたところに「鶏塚」があります。かつては、国道から見えたそうですが
今では、草木に覆われ見えなくなっています。最近、地元の方による新しい祠が建てられています。鎌倉時代、国司藤原保昌が巡察で
日置の金剛心院に立ち寄り、和泉式部の歌が多く、一種をここに埋めたことによる。また、「鶏塚」の名前は、災害を知らせる鶏が、
鳴き声で知らせたことから名前がつけられたとも言われています。
国道沿いに、「義士義民追頌碑」という、大きな碑が斜面にあります。江戸時代、宮津藩の最大一揆のひとつと言われる「文政一揆」が
起こってから100年後、大正15年に建てられました。宮津藩第5代藩主本庄宗発は、寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中と幕府の
要職を務め頃、国元の宮津藩では多大な経費を捻出するため、家老沢辺北冥が考えた万人講。全領民から一日三文の税金をかけ増収策を考え
出しました。江戸家老栗原理右衛門は大反対で、北冥は家老職を解かれました。その年の暮れ石川村の吉田為治郎、新兵衛が丹後一円に呼び
かけ宮津城大手門に集まった農民が3万人集まり、宮津藩最大の一揆となりました。翌年、首謀者は逮捕され、栗原理右衛門、百助父子も
投獄され、首謀者が次々斬首されるなか、百助は田辺、京都、近江八幡まで逃げたところ追ってに捕まり、西光寺で切腹しました。
西光寺には、切腹石と栗原稲荷が祀られています。栗原理右衛門は、藩主宗発が死去して釈放され、6代藩主宗秀の後見役になりました。
小天橋との間にある文殊水道、鉱石船、観光船が通りすぎます。空き地に、「涙が磯」(写真左)の立札があります。放映中の大河ドラマ
「平清盛」にも関係しますが、清盛の孫重盛の五男忠房に仕えた白拍子花松が忠房が壇ノ浦で討死したのを知り、追ってをさけるため遺児
を抱き身投げしたと言われます。後々、丹後物狂の舞台にもありました。
また、文殊荘の向かいにある墓地に「大江山谷五郎」(写真中)という、ひときわ大きな墓石があり江戸時代活躍した宮津藩の相撲取りの墓です。
宮津には、大頂寺に「鉄兜」経王寺に「岩ケ洞長次郎」の墓があり、相撲取りの墓が残されています。漁師町会館横には、大きな石碑が
ありますが、大正時代巡業にきた大関「太刀山」が郷土で活躍した力士の名を刻んだそうです。
線路を渡り、ビューランドのモノレール乗り場を過ぎたところ、右手の空き地の突き当りに池が見え(写真右)宮津線の線路がみえます。
かつては、海がここまであり舟屋が22軒あったそうです。農作物や肥料を輸送していたそうです。やがて、生活様式も変わり土地造成で
どんどん埋め立てられここだけ残ったそうです。非常時は、貯水池にもなる地元では大事なところです。
左手の路地を行くと、小高い岡に開けた空き地があります。保昌塚があります。さらに、登山道を10分ほど上がったところに「奉納
如法経五部・元和2年の碑面があり鎌倉時代末期の経塚といわれています。
吉野神社(写真左・中)があります。明治の神仏分離で建てられ智恩寺の鎮守社の三宝荒神が祀られています。現在は、智恩寺庫裏に移されて
います。吉津地区は、「吉野神社」と「須津神社」の両方からとられています。
再び線路を越え、国道を渡ると三角五輪塔があります。(写真右)なにも書いてありません。
日本三文殊のひとつ智恩寺。見どころ、文化財は多数あり立派な観光地ですが、ここでは、稲富一夢斎(写真左)をご紹介します。
一色氏の家臣として、鉄砲の名手として活躍し、細川幽斎が一色氏を滅ぼしたあと、その腕をかって召し抱えました。のちに、徳川家康に
召しかかえられ、江戸時代平和になると、三河花火の元になりました。
智恩寺山門(写真中)は、黄金閣といわれ宮津の寺院では最大規模です。宝歴14年(1764)修復に際し、後桜町天皇より黄金が下賜され、
棟梁は富田庄次郎が務めました。
廻船橋(写真右)は、大正時代末期にできた稼働橋で、90度回転し船が往来します。与謝野晶子の歌に「人押して、廻船橋の開くとき、黒く
も動く天橋立」と当時のにぎわいを歌っています。昭和35年、電気式で開閉するようになりました。
阿蘇海に面し、鳥居があります。対岸に文殊堂があり江戸時代は渡し船が行き来していました。昔、小女郎というきつねが住んでいました。
美人に化けることがうまく、新浜帰りの酔客がうずくまっている美人を介抱していると、それは松の枝だったとか。船頭が渡し賃を数えると
どうも石ころばかりだ。小女郎が化かしたそうです。これが、イケメンには滅法弱く、ある日神様よりもらった玉をイケメンに渡して
しまい、二度と人間に化けられなくなった。しかたなく、橋立明神の番をするようになりました。
橋立明神の祭神は、八大竜王で智恩寺の境内にあったとも言われています。また、大川大明神、豊受大神も合わせて祀られ、天橋立が
籠神社への参道と言われています。
磯清水の前で記念写真を撮りました。
以上